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コメント: 30
  • #30

    justitiacumcaritate (木曜日, 16 7月 2009 06:37)

     先便の最後の五六行目

     >>これは「勇気」に属する……

    をつぎのように改めます。

     >>先の「命を絶つ」というのは「勇気」に属するのですが、その「勇気」の一般的なかたち・向かっている価値ある目的には厳しい条件があって、それは「正義(justice)を目指さない勇気は褒められたものではない」(このホームページに掲載の拙訳『四枢要徳……』(第Ⅲ部第3章と解説3ページ下段)ということなのです。(以下、同文)

  • #29

    justitiacumcaritate (木曜日, 16 7月 2009 00:34)

    Y様:
     ご質問有り難いです。答えが複雑になりがちなのですが、少しずつ歩を進めようと思います。

     >>そこに見えていないものを、ちゃんと、見る…というか知る、

     おっしゃる通り。分かっていただけたようで、嬉しいです。

     少し問題をずらして話を展開してみます。
     「見えていないもの」、これを英語でいうと‘the invisible’ですよね。「見えるもの、見えざるもの」というときの後者ですし、「見えざる手」「透明人間」というときにも使う。
     生物学的に言えば、遺伝子の中に書き込まれている設計図でしょうか。これには実に長い長い歴史があるようですが、私の専門ではありません。

     問題を先取りします。個々の人間について、この「見えざるもの」が外見上見える顔つきや日々のライフの姿勢や個々の行動のかたちを作り上げています。いわゆる人柄、性格、人品と言われている心の習慣的な構造です。心の習慣、精神的習慣というのは、徳という問題レベルでは、その人自身が作り上げた、したがってまさしくその人の人柄について善悪正邪が評価されるところの性格です。
     当人の個々の行動とは区別して、当人の多くの行動の一般的なかたちを成しているものです。このうち、いわば精神的習慣病、これが悪徳であり、その反対が徳(virtue 美徳)です。これは言葉の定義の問題として収めてください。
     たとえば、自分に都合のいいようにしょっちゅう嘘をつく習慣があれば、これは一つの悪徳であり、嘘をできるだけつくまいという姿勢がかたち作られておれば、これが徳です。
     古来、洋の東西を問わず、どのような善い精神的習慣が素晴らしいもの・求めるべきものとして挙げられるか、と問われてきました。
     細かい徳目については多様な異論があってかまいません。また、人の個性に応じて、社会のしくみに応じて、多様な「求めるべき・求められるべき習慣」があってかまいません。
     しかし、基本的に、人間であるかぎり誰でも要求される四種類の徳がある、それが四枢要徳(four cardinal virtues)だ、というのが古典古代のギリシア以来の西洋の伝統なのです。

     さて、Y様の「自ら命を絶つのを美徳とする精神性を持つ日本人」という文を受けて、私は「いのち」と「命」とを区別しました。
     問題を簡単に片付けておきます。
     「命」を絶つ、これは昔ですと切腹とか諌死とか、現代にも自爆などというとんでもないものまであります。親が子を救うために命を捨てる、というようなことも。どの場合も、自分の命よりもいっそう大切な価値ある目的があり、自分や主君の名誉のため、主君が善くなるため、自国を救うため、自分たちの宗教を守るため、子どもの命のためといったことのために、自分の命を絶つと言っていいと思います。そのときの「〜のため」「いっそう大切な価値・目的」、それに賭けて自分の生活全体が決まっている「それ」、このことを私は「いのち」と表し、「命」の多義性を避けてみました。

     さてさて、問題は上に挙げた価値・目的が本当に真実の価値・目的なのかということ、これを議論して確かめなければならない。
     四枢要徳の伝統では、これは「勇気」に属するというのですが、その「勇気」の一般的なかたち・条件は「正義(justice)を目指さない勇気は褒められたものではない」ということです。
     そこで再び、きわめて大事になるのが「正義とは何か」ということ。これについてこそ、プラトン以来の詳細な分析があるのです。
     少しずつ。

  • #28

    (水曜日, 15 7月 2009 20:52)

    なんだかもう一度読み返してみましたら、
    私はとっても浅はかだったなぁと思い始めました。…また熊本城の話なんですが(笑)
    たぶん私は、頭の中にお城の絵しか描けず、
    「もったいない」という表現しか出てこなかったんだと思います。
    「それ」を正しく評価するためには、
    そこにあるモノを見ているだけじゃ、ダメなんですね。
    正しい評価はできないし、真理も見えない。
    そこにどんな過程があって、
    どんな人たちが関わってきたか、
    そこに見えていないものを、ちゃんと、見る…というか知る、
    なんだか、すごく大事なことな気がします。
    見えないものを伝えられたら、益々素敵なことですね。
    上に立つ人は、熊本城を焼くような傲慢さがあってはいけない。
    今更ながら、一層納得です(笑)
    言葉について気になってきました。
    『本当の「いのち」のために「命」を絶つこと…』
    今度はこの話を教えてください。
    「いのち」と「命」は、どんな違いがあるのでしょうか。
    私は『美徳』という言葉を、さほど深い意味もなく簡単に使いましたが、
    『美徳』にはどんな意味があるのでしょうか。
    そう言うためには、そこにどんな条件が必要なんでしょうか。

  • #27

    (火曜日, 14 7月 2009 21:31)

    熊本城の件、なるほど、そういう意味での『傲慢』なのですね。
    納得しました。

    その後は…
    エネルギー切れで、考えれば考えるほど袋小路にはまってしまいそうなので、
    とりあえず、夕食?夜食?をとってまいります。
    ではまた。

  • #26

    justitiacumcaritate (火曜日, 14 7月 2009 16:05)

    Y様:
     きっとお忙しいなかだと拝察します。それなのに投稿をいただいて、ありがとうございます。
     >>自ら命を絶つのを美徳とする精神性を持つ日本人ならではの
    発想なんでしょうか。
     熊本城の話は、半年前に熊本を訪れたさい、見聞きしてきました。やはり名城ですね。外見だけでも、富岳三六景ならぬ熊本城三六景を描いたり撮ったりできる人がおれば、との印象です。
     しかし、外見の武者返しの石垣だけでなく、城自体の配置、構造、内装等、これは特定の所有者の所有ではないでしょう。多くの技術者たちの巧み、知恵、汗、すべてが一緒になってはじめて出来上がるもの。財力にしても、それを底から支えているのはみんなです。みんなの汗です。清正だけのものではない。
     江戸城も同じでしょう。名の残っている天才が一人おり、その人だけの手になるものではなく、その種の才能を皆で評価できて支え合い助け合う多くの人々あっての作品です。
     あたかも自分の、もしくは自分たちだけの所有物であるかのように、城を焼く、これは傲慢以外の何物でもない、と私は思います。
     本当の「いのち」のために「命」を絶つこと、これについては、また別途考えてみたいと思います。どのような条件付きで「美徳 virtue」と銘打つことができるのか、大事なこととして残っていると思います。

     >>禅問答みたい……
     この種の問いは、一つずつ丁寧に、できれば詳細に分析しながら議論を展開する必要がありましょう。問い自体を大きなままにせず、細かく分けて、また答えも筋を通して短絡のないように、努力と時間が要求されます。

     先回のご投稿に対して、ちょっとした付け足しをさせてください。
     >>ライプニッツはニュートンとの関係もあって、イギリスと深く関わることができなかったんですね。
     より正確には、ライプニッツとイギリス王室との関係について、あまり深くなかった、ということですね。
     先便で少し触れた英国ジョージ2世妃キャロライン(カロリーネ)との往復書簡は一冊の本になって残っていますが(フランス語であり、まだ和訳がありません)。
     思想家、哲学者(科学者)、神学者、政治学者、倫理学者等との影響関係、また交流は、実に多様なものがあります。
     また禅問答か、と言われないうちに今回は打ち切りますね。
     

  • #25

    Y (火曜日, 14 7月 2009 15:15)

    >名城で有名なかの熊本城、これを、西南の役で薩摩に乗っ取られるのを潔しとせず、自ら城に火を放つ。考えてみるとこれほど愚かな行為があるでしょうか。

    そんなことがあったんですねぇ。
    自ら命を絶つのを美徳とする精神性を持つ日本人ならではの
    発想なんでしょうか。
    太田道灌が建て、徳川家に移行し、
    大政奉還で皇居として残っている江戸城のことを考えると、
    もったいないというか愚かというか。

    >実に重大な問題であり、お答えするのはまた難しい。
     今、分裂・憎しみ合いの愚かさ、戦争の悲惨さ、そして思想的にいわゆる「近世・近代」という、我を張り私利私欲に走るのを「自由」「個性」と呼びかねない思潮の始まり等々、言葉だけを並べておきます。

    むむむ…
    難しいです。
    禅問答みたいです。
    …ぬぬぬぬぬ
    今の私には、すぐには理解できなそうです…。

    むむー

  • #24

    justitiacumcaritate (月曜日, 13 7月 2009 20:13)

     「『君臨すれども統治せず』_わが国にも似ている気がしますが」

     よく捉えておられますね。おっしゃる通り。

     「議会といえば、東京都の議会も大変な動きが出ています……『江戸城に火の手が上がった』なんて言われていますが」

     いやあ、この暑い熱い夏、火の手が上がれば本丸も時間の問題ではないでしょうか。というより、「火の手」とは実に物騒ですね。どこの国民も、政争があるとすぐ焼きたがる。外敵ならいざ知らず、言ってみれば内輪もめですよね。適切な表現は、「江戸城からこれまでの党が退城し、別の党が入城した」程度にしておきましょう。

     名城で有名なかの熊本城、これを、西南の役で薩摩に乗っ取られるのを潔しとせず、自ら城に火を放つ。考えてみるとこれほど愚かな行為があるでしょうか。

     「どうして分裂してしまい……分裂したキリスト教教会の再統一……。なぜ再統一すべきと彼が考えたのか、お時間があるときに教えてください。

     実に重大な問題であり、お答えするのはまた難しい。
     今、分裂・憎しみ合いの愚かさ、戦争の悲惨さ、そして思想的にいわゆる「近世・近代」という、我を張り私利私欲に走るのを「自由」「個性」と呼びかねない思潮の始まり等々、言葉だけを並べておきます。

  • #23

    (月曜日, 13 7月 2009)

    詳しいお返事をありがとうございます。
    なるほどー。
    ライプニッツはニュートンとの関係もあって、
    イギリスと深く関わることができなかったんですね。

    『君臨すれども統治せず』
    国の象徴と定められたわが国にも似ている気がしますが、
    当時からイギリスでは議会が強い力を持っていたのですね。
    議会といえば、東京都の議会も大変な動きが出ています。
    「江戸城に火の手が上がった」なんて言われていますが、
    本丸に飛び火するんでしょうか。
    日本の国会も、いよいよイギリスのように二大政党制が定着することになるのでしょうか。

    そんなことはさておき、
    『17世紀に分裂したキリスト教教会の再統一…』
    これが気になります。
    どうして分裂してしまい、
    なぜ再統一すべきと彼が考えたのか、
    お時間があるときに教えてください。

    よろしくお願いします。



    17世紀

  • #22

    justitiacumcaritate (土曜日, 04 7月 2009 03:21)

     7月3日投稿の訂正をしておきます。
     その②の11行目、誤「ただ、議会は」を、正「ただ、議会の内外では」に。
     老僭王等の擁立はいわゆるジャコバイト(ジェームズ2世子孫の支持者)が中心であり、議会の主勢力ではない。

  • #21

    justitiacumcaritate その③終わり (金曜日, 03 7月 2009 15:04)

     しかし、われわれはここで、ハノーヴァー公系統の宮廷における、そしてさらに広い視野からの神聖ローマ帝国などへの、ライプニッツの公的な役割・貢献について、確認しておきましょう。(主に増永著『人類の知的遺産、ライプニッツ』に拠る。)

    

1670(24才) マインツ公(選帝侯でありローマ・カトリック教会に属する)の法律顧問に任命される。
    
1671-72 その廷臣ボイネブルクの依頼により「エジプト計画」を草案し、フランスのルイ14世に提出(ルイはヨーロッパを侵略の対象とするのではなく、エジプトに侵攻せよ、との計画。エジプト侵略は100年以上も後のナポレオンによって実行される)。
    
1677 ハノーヴァー公ヨハン・フリードリヒ公爵の宮廷顧問官に任ぜられる。

    1680 公の死後、後継者エルンスト・アウグストによって引き続き地位を認められる。その妃ゾフィーとの親交深く、哲学を議論し多くの往復書簡が残っている。
    
1688 神聖ローマ帝国の首都ウィーンに滞在し、それまで疎遠であったウィーンの宮廷とハノーヴァー宮廷との関係改善に努力。
1696 ハノーヴァー宮廷の枢密顧問官に任命される。
1697 ロシアのピョートル大帝に対して「ロシア・アカデミー」設立の建白書を送る。
    
1700 ベルリン(ブランデンブルク、のちプロイセンの首都であり、その選帝侯妃は上記ゾフィーの娘ゾフィー・シャルロッテ。往復書簡が多くある。)に滞在し、ベルリン・アカデミーを設立し、その初代会長に任命される。
    
1712 ピョートル大帝の私的顧問官に任命される。
    
1713 ウィーンの神聖ローマ帝国皇帝カール6世によって枢密顧問官に任命される。

    


 ただ、ライプニッツは諸公国や帝国のあるべき共通善(common good、国家等の共同体全体の最終的な目的・最高価値。卑近な理解の仕方が許されれば、予算の分配をどのようにするかに、それが現れる)の核心を福祉と学問・科学の振興に置いていた。一国に今すぐ役に立つわけではないような学術に対しては、いつの時代もそうであるように、宮廷中心の政治家は関心を示さないことが多い。


     また、ライプニッツは、英国のような対大陸、対ドイツという偏った姿勢に対して、学問そのものを愛するトップレベルの専門家達との書簡による交流を優先させ(公開されることも少なくない)、それによって多くの系統立った斬新なアイディアをヨーロッパ中に知らしめることになります。
     その影響は一時代を超えて現代にも及び、ハノーヴァー図書館に保管されている未公刊の厖大な執筆物・書簡がドイツのアカデミーなどによって発掘整理され、研究が展開されています。哲学そのものは言うまでもなく、現代論理学(記号論理学)、二進法算術、位相幾何学、統計学、保険計算法、法学の衡平法など、影響を多く挙げることができると思います。
    

 さらに、彼が腐心したのには16、17世紀に分裂したキリスト教教会の再統一がありましたが、今回はふれません。

    

 彼のアイディアの源は、基本的には、古典古代のギリシアや中世ヨーロッパのあらゆる哲人達の著書に盛られている貴重な知的遺産を、狭い視点から取捨選択するのではなく、偏りなくフェアに評価し研究できているところにある、と私は見ています。

    

 ライプニッツに関する簡便な読み物としては、増永著『人類の知的遺産、ライプニッツ』、下村著『世界の名著、スピノザ・ライプニッツ』などがありますし、エイトン著『ライプニッツの普遍計画』は、哲学そのものについては少し弱いが、その他の点ではめったに見られない詳細な伝記です。

    

 以上、ライプニッツと宮廷との関係、私の専門ではないので、いささか乱文の走り書きですが、記しておきました。(終わり)

  • #20

    justitiacumcaritate その② (金曜日, 03 7月 2009 14:50)

     もっとも、ライプニッツの仕えたハノーヴァー朝のゲオルク・ルートヴィヒ(1660-1727、1714-1727までジョージ一世として大英帝国国王在位)が英国の王位継承法(Act of Settlement, 1701)に従って、アン女王亡きあと、その国王に立てられるのですが、ゲオルク・ルートヴィヒの母で先代ハノーヴァー公の公妃ゾフィーが、王位継承法に拠り第一の英国王継承権者でした。彼女はアン女王薨去の二ヶ月前に世を去ります。
    
 宗教上、プロテスタントの血縁者でなければ国王に戴かせないと決めた英国の議会は、他国の血縁者であっても王位継承権がある、ということも認めることになります。
    
 ただし、議会はいろんな理由をつけてドイツにいる公妃やその嗣子を自国に来ないように策略する。アン女王の弟にジェームズ三世という人物がいますが、こちらの方をアンの後継者として擁立しようとする動きがそれであり、彼は「老僭王(The old Pretender)」と呼ばれる。さらに「若僣王(The young Pretender)」も続く。
    
 ライプニッツは、ハノーヴァー家の英国における王位継承権を英国議会が無視しないように、動いたことが知られています。


     もともとハノーヴァー公が選帝侯(神聖ローマ帝国皇帝を選ぶ権利のある諸侯で7~9公)に推挙される(1692)に当たって、当家の出自の正統性をめぐって、ライプニッツは多大の貢献をしています。ですから、主君からは大いに厚遇されてもよかったのですが、そうはいかなかった。ライプニッツは1714年のハノーヴァー宮廷のイギリスへの移動にさいして随行を願い出ますが、果たされませんでした。
    
 理由の一つには学問上のこともありました。西欧17世紀という時代のことを「科学革命(The Scientific Revolution、知識の大革命)の時代」と呼ぶこともあるのですが、その中の記念すべき数学上の発見に微分積分法というのがあります。その発見のプライオリティをめぐって、ニュートンの発見とライプニッツの発見、どちらが早かったかということが問題となったのです。加えて、ライプニッツはニュートンの発見を横取りした、というあらぬ嫌疑まで付きまとって、長い論争が英国と大陸との間で続いていたことがあります。英国民にとって数学者ニュートンは稀代の英雄なのです。
    
 ライプニッツとニュートンとの広範な哲学にわたる論争が、ライプニッツ他界前の二年間にわたって繰り広げられ、公開されますが(ライプニッツ・クラーク往復書簡)、それはハノーヴァーでの彼の知己で、1714年に英国に渡ったカロリーネ(Caroline、キャロライン、ジョージ二世妃)を介してのことでした。(続く)

  • #19

    justitiacumcaritate その① (金曜日, 03 7月 2009 10:18)

    Y様:
     大変遅くなりました。ライプニッツとイギリス王室、ハノーヴァー(ブランシュヴァイク=リューネブルク)公室との関係に ついて、まとめてみました。ご期待の的からはずれているかもしれませんが、お許し ください。

     ライプニッツとイギリス王室(1707年までイングランド、以降はスコットランドを 含めて大英帝国 Great Britain)との関係は薄い、と言った方がいいのではないかと 私は思います。
     管見によれば、イギリスは16世紀以降、大陸(スペイン、フランス、ローマ・カト リック教会、神聖ローマ帝国、そしてドイツ諸邦など)からの自主独立を標榜し、自 国の政治では議会制を尊重し、大陸から距離をおいた自由(それを良心的と呼んだ) でユニークな政治と宗教を強調し続けます。
     17世紀には、イングランドの教会は、英国教会として、ローマ・カトリック教会に プロテストして完全に独立しており、さらには国教会の祈祷書(Book of Common Prayer)が統一される。彼らのキリスト教は国家宗教であり、普遍的宗教であることを 拒否した、とも言われます。ただし、自らを「カトリック(普遍の)」と呼びはしま すが。
     国は多少の紆余曲折のあと、いわゆる名誉革命などを経験します。さらにスコット ランドを併合して(1707)、イングランドが大英帝国となり、大きくまとまります。
     イギリスの王室自体の政治力ですが、英国議会に勝ることがなく、国王や女王は 「君臨すれども統治せず(The English sovereign reigns, but does not rule.)」 という慣習法が確立されていきます。
     一昔前のエリザベス時代にあった、対スコットランド、対スペインやフランス、そ して対ローマカトリック教会のような、ドラマチックな緊張とせめぎあいが比較的小 さくなるほどの強大な近代国家が、議会の力を中心に、すでに形を成しているので す。強いて言えば、英国はかなり排他的です。(続く)

  • #18

    justitiacumcaritate (火曜日, 30 6月 2009 23:36)

    Y様:
    遅れていたいへん申し訳ありません。
    もうしばらく、お許しください。

  • #17

    Y (水曜日, 24 6月 2009 12:11)

    暗中模索で探っていましたら、
    ツールバーの「編集」に「検索」という機能を発見し、
    Elisabethを入力したら、本当に6件ヒットしました!!
    しかも各々のElisabethをクリックしたら、
    そのページに自動で飛んでくれるんですね!!!
    そんな優秀な機能があるなんて、理解していませんでした・・・(涙)

    あんまり感激したので、またコメントしてしまいました。
    すいません。

    「ライプニッツとイギリス王朝の関係」をお待ちする間に、
    もう少し、検索機能で遊んでみます☆

  • #16

    justitiacumcaritate (月曜日, 22 6月 2009 20:50)

     次号はまだなんですが、あまりにも面白いご投稿なので、つい応えたくなりました。
     夫のファルツ選帝侯を王に選んだボヘミアは30年戦争で敗北を喫しましたが、彼女には「ボヘミアの」という呼称が残っています。
     デカルトとの交信は『方法序説・情念論』(中公文庫)、『世界の名著、デカルト』(中央公論社)、『デカルト著作集3』(白水社)などで見ることができます。
     もちろん、われわれのライプニッツとゾフィーとの交信もあるんですよ。ではまた。

  • #15

    Y (月曜日, 22 6月 2009 20:13)

    なるほど!
    Elisabeth de Bohemeは、「エリザベス」ではなく「エリザベト」、きっとボヘミアングラスで有名な現在のチェコのあたりの妃だったのですね。
    それにしても、姉はデカルトを完全に理解し、妹はライプニッツを理解する、学問を愛する当時の女性たちの姿勢は素晴らしいですね。デカルトとの書簡は、どこかで見られるのでしょうか・・・。

    次号の「イギリスの王朝との交流について」、楽しみにしています!

  • #14

    justitiacumcaritate (日曜日, 21 6月 2009 18:38)

    Y様
     ごらんいただいてありがとうございます。
     まだ完全ではなく、とくにページの変わり目に大きな間隙が生じていて、見にくい系図のままでしたのに、恐縮します。
     赤色が一国の王や女王を示していること、よく気づかれました。また、簡単に画面の拡大ができることについても、ここに訪れる方々へのご案内となるものであり、これについてもありがとうございました。
     アップしている系図は単なるpdf写真ではなく、打ち込んだ文字のpdfプリントですので、文字をもれなく検索することもできます。たとえば、Elisabethを検索すると、6件ほどヒットすることに気づきます。
     さて、ここで、私の方の間違いを修正しなければならないことに気づきました。
    実はElisabeth de Bohemeは赤色ではなく青色の強調色でなければなりませんでした。青色は、ライプニッツとの関係で(とくに私にとって)重要と思われる人物なのです。同様の間違いが「12Sophie」についてもあり、いずれ修正版をアップします。
     さて、Elisabeth de Bohèmeについてですが、彼女はイングランドの人ではありません。ですので、私の説明は、まず、彼女について、どのような人物であり、またなぜ重要だと私に思われたかということ、ついで、彼女とは別のこととして、ライプニッツとイングランド、そして英国の王朝との交流という、Y様のご質問に対してのお答え、というように分けることになります。
     Elisabeth de Bohemeはボヘミア(ベーメン)のエリザベトとも呼ばれたファルツ選帝侯妃です。デカルト(-1650)の存命中親交があり、デカルトとの往復書簡が残っています。デカルト自身が、「自分の公刊した書き物のすべてを完全に理解したのこの妃であった」と言うほど、数学や形而上学に並々ならぬ才を示したファルツの王女であり、デカルトの心身二元論の含む難問を指摘したことでも有名です。1667年、ヘルフォルト(ドイツ西部のヴェストファーレン)の修道院長となり、1680年に没します。
     この妹がライプニッツを庇護したSophieハノーヴァー選帝侯妃なのです。
     ライプニッツと英国皇室との関係については次便で。

  • #13

    Y (日曜日, 21 6月 2009 02:33)

    ハノーヴァー家の系図を拝見しました。
    色分けされていたり、pdfファイルなので細かい部分も拡大して見られたり、本当に見やすいですね!
    何よりも、世界史に疎い私のような人でも知っている「エリザベスⅠ世」から始まって、現在の「エリザベスⅡ世」にまでつながっていることが、なんとも分かりやすく、感激いたしました。
    なんだか難しそうなイメージがあったのですが、眺めているうちに、ライプニッツ氏がどんな人物だったのだろうと興味がわいてきました。で、素朴な疑問です。

    ライプニッツ氏が、79年12月26日頃に、当時の女王Elisabeth de Bohemeを見舞った、とあります。彼はイギリス王朝とも交流があったのでしょうか。どういう立場でお見舞いしたのですか?
    彼が当時、ハノーヴァー家やイギリス王室に果たした役割はどのようなものだったのでしょう。
    もし可能でしたら、お時間のある時に、教えてください!
    ぜひ!よろしくお願いします。

  • #12

    justitiacumcaritate (金曜日, 19 6月 2009 22:46)

    正確な時間はこちらです→2009.6.11 AM2:00

    「良心結婚」4 
    現時点では相変わらず、「良心結婚」を記載したときの出典が分かりません。 

     ですが、ここで二三補正を加えておく必要を感じましたので、今回はそれのみの投稿です。

     まず、「良心」の概念について。

     私は「一国の諸法律・制度に対して、人間としての、もしくは、より広い共同体の掟」と説明しました。

     その真意は、外から命令され、違反に対しては制裁が課されるところの一国の法律等に対して、自らの反省によって深められた結果得られるはずの掟、ということです。(Cf. パウロのロマ書2:14-15)。誰でも、自らそのような掟を自分の心の中に知ることができる、という意味で。

     「良心」という言葉に伴いがちな「個人的・私的に自由な判断」ではなく、真に自由な判断は結局、なんらかの広い共同体を前提にした普遍的な掟に自分で到達できることであり、そのことを「良心」という概念は含んでいる、ということです。これが一つ。

     ついで、私は間違えて、ゲオルク・ヴィルヘルム公はハノーヴァー公爵からツェレ公爵になった年を間違えて1676年と取り、その年に正式結婚に至った、と勘違いしていました。系図をごらんになればお分かりの通り、ツェレ公爵になったのは1665年で、その年が同時に良心結婚の年でした。私の単純なミスです。

     したがって、二つの公国の制度の違いは、この件に関して、関係ないということになります。

     当時の結婚制度の詳細を私は知りませんが、教会法(codex juris canonici)のようなものは、現代に至っても大きく変わるものではないと思います。

     諸侯の結婚については、われわれにはむしろ疎い日本の「皇室の結婚」の方が少し参考になりはしないでしょうか。

     民法で種々の権利と義務が規定されているような「事実婚」とはずいぶん違うのではないでしょうか。私の憶測です。

  • #11

    justitiacumcaritate (金曜日, 19 6月 2009 22:45)

    正確な時間はこちらです→2009.6.2AM6:00 

    [良心結婚」3
    アメリカ『宗教百科事典(Encyclopedic Dictionary of Religion)』(The Sisters of St. Joseph of Philadelphia)に項目がありました。
     それによると、当人たちと二人の証人の前で聖職者が結婚を宣言するが、それを一般に公表して祝わない種類のもののようです。

     先便で私は
     「とすると、ハノーヴァー公国の婚姻の規定によらず、宗教的共同体(より広い共同体)の認める婚姻が行われていたことを「良心結婚」と呼んでいることが、少し信憑性を得ることにはならないでしょうか。」
    と書きました。

     このときの「より広い共同体」とは確かに教会共同体なのですが、この辞書によれば、目に見えぬ教会共同体のことが考えられているようです。

     キリスト教の世界では、どのような結婚であろうと、それを洗いざらいすべて、神様に、したがって、その代理人としての聖職者に、知らせて認めてもらうということがあると思います。

     とすれば、われわれの言う「事実婚」に近いが、しかし質の違ったものだということになるでしょうか。

     さらに、「良心婚」から「正式結婚」への移行は、すべての場合にあるとは限らない、ということでしょうか? まだそのあたり、私にとって不分明です。

     インターネットで調べるには以下のURLがあることを私の先輩が教えてくれました。
     http://www.newadvent.org/cathen/09699a.htm

  • #10

    justitiacumcaritate (金曜日, 19 6月 2009 22:42)

    正確な時間はこちらです→(2009.6.1P.M.5:00)

    「良心結婚」2 
    柴田光蔵『法律ラテン語辞典』(日本評論社)に「良心結婚」にあたる項目が載っておりました。

     matrimonium conscientiae。

     英語でmarriage of conscienceになりましょうか。

     その辞書的説明には「良心による婚姻、同信仰の婚姻」とあります。

     これだけのことで、相変わらず中身は不明です。
     
     が、「同じ信仰」というのは、おそらくキリスト教のローマ・カトリック教会の信徒同士、もしくはハノーヴァー関係の場合、福音主義教会(ルーテル教会)の信徒同士ということかと思います。

     いわゆる30年戦争と呼ばれる、ドイツを戦場としたヨーロッパ全体の宗教戦争、いや覇権争いが1648年のウェストファリア条約で一応の治まりををみます。その後、ドイツの諸侯はローマ・カトリックを取るか福音主義を取るか、あるいはまたカルヴァン主義を取るか、おのおのに任され、侯国の選択に応じて臣民もいずれかを選ぶことになる、ということになったと記憶します。

     そこで、ドイツの各邦がどれを取るか、少なからず重大な選択となります。このために、私は公爵家の系図の中に、分かる限りでいずれかを明記しています。

     ご質問とは直接関係しませんが、わがライプニッツを招聘したヨハン・フリードリヒ公爵は福音主義からローマ・カトリックに改宗した君主です。ライプニッツは特定の教会だけにこだわらない、広い視野をもつ君主を選んだのです。

     とすると、ハノーヴァー公国の婚姻の規定によらず、宗教的共同体(より広い共同体)の認める婚姻が行われたことを「良心結婚」と呼んでいることが、少し信憑性を得ることにはならないでしょうか。

     ちなみに、法律ラテン語というのは、必ずしもローマ時代のラテン語とは限らず、東ローマ帝国、中世ヨーロッパ、そして近世ヨーロッパの法律用語も含んでいることを付け加えておきます。

     今日までに気づいた一点のみ、そしてその解説を加えておきました。

  • #9

    star (金曜日, 19 6月 2009 22:37)

    正確な時間はこちらです↓
    (月曜日, 01 6月 2009 22:01)

    丁寧な解説ありがとうございます。
    良心婚=同信仰の婚姻・・・まだピンときていないのが正直な感想ですが。ともかく「良心婚」という記録を初めて見ましたので好奇心からの質問でした。その時代、良心婚の時系列的延長上に「正式婚」となる・・・という流れだったのでしょうか?時代背景、世界史的観点からも興味をかきたてられます。この掲示板でより詳しい情報が得られることを期待します。ありがとうございました。

  • #8

    justitiacumcaritate (金曜日, 19 6月 2009 22:35)

    *調整のため日付が変りました。
     正確な日付はこちらです→2009.6.1A.M.2:00

    star様
     ご投稿ありがとうございます。

     ご指摘の箇所はGeorg Willhelm(ライプニッツをハノーヴァーに招聘したヨハン・フリードリヒ公爵の兄)、1648年から1665年までハノーヴァー公爵で、65年から死去の1705年までツェレ公爵であった人物についてですね。

     1665年に妃Eleonore Desmier d'Olbreuseと「良心結婚」との記載があります。1676年には「正式結婚」と。

     さて、今すぐには、記載した出典を探し当てて、具体的にどのような結婚だったのか、ご説明することが残念ながらできません。しばらくお待ちいただけますか。

     今言えることは、「良心」という言葉の一般的な意味だけです。

     もしかして、「正式結婚」というのは、ハノーヴァー公国の法律・制度に基づいて認められる「形式的」な結婚なのではないか、と私は想像します。

     一国の法律に厳密に従う事柄をその一国の「政治的」事柄と呼び、それに対して一国の枠を超えて、(人間として、もしくはいっそう広い共同体において)認められるべき事柄を「良心的」と呼ぶことがありますね。

     たとえば、「良心的兵役拒否」というのは、一国の法律上兵役の義務があるが、それを「良心」の立場から拒否できるといった。あるいは、「政治犯」というのも、一国の法律に照らせばその国の「法律」に反するが、しかし人道的な立場からその法律に反対することによって、甘んじて投獄されることですよね。

     ハノーヴァー公国のなんらかの法律・制度上の制約があったために、当人がツェレ公爵になるまでは「正式」と認められなかった、そこで「良心的」と呼んでいる、今、私はこのように、大いに間違いの可能性がありますが、推測しています。

     典拠の資料が見つかればいいのですが。しばらくお待ちいただけますか。

     何はともあれ、このようにご質問があると、私の方もいわば活気づいてきて、間違いを訂正したり、あらたに深く資料を調べたりするきっかけとなります。

     ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

  • #7

    star (月曜日, 01 6月 2009 00:56)

    ハノーヴァー侯爵家の系図を拝見しました。
    私はライプニッツなど哲学についてど素人です。しかしながら、クロノロジーのプロローグを拝見して、ライプニッツの人生に興味を持っています。ハノーヴァー侯爵家の系図も単純な好奇心を持って拝見しています。検討違いの質問だったらスルーしていただいて構いませんが、Georg Willhelmの結婚に「良心婚」とあるのは何のことですか。いわゆる事実婚のことなのですか?良かったら教えてください。

  • #6

    justitiacumcaritate (月曜日, 18 5月 2009 20:27)

    star様
    覗いていただいてありがとうございます。
    未熟な技術が少しずつアップしますので(ホントかな?)、またときどき見に来てくださいね。

  • #5

    star (月曜日, 18 5月 2009 00:41)

    ハノーヴァー公爵家の系図アップされたのですね。完成を楽しみにしています。何気に追加されているフォトギャラリーもプラスαの楽しみです。

  • #4

    justitiacumcaritate (日曜日, 17 5月 2009 04:31)

    ハノーヴァー公爵家の系図をアップしたつもりが、ワープロ書類をPDFプリントすると右端が切れてしまっていて、目下役立たずです。完成までしばらくお待ちください。

  • #3

    justitiacumcaritate (水曜日, 13 5月 2009 07:19)

    K様
    早速お声をかけていただいて、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

    TAGOYAMA様
    早速のコメント、ありがとうございます。まだ操作の仕方も未熟で、これからですが、クロノロジーの原本をここにしっかりさせておきたいと思いました。ライプニッツ研究会の方のクロノロジーの編集については、TAGOYAMA様の並々ならぬご尽力がうかがわれ、頭が下がります。これからもよろしくお願いします。

  • #2

    WAKAKO TAGOYAMA (水曜日, 13 5月 2009 02:28)

    お世話になっています。
    ホームページ開設おめでとうございます。
    クロノロジーは大変充実しており、今後の展開がますます楽しみです。お世話になっています私どものHPも閲覧しやすいよう努力いたします。今後ともどうかよろしくお願いいたします。

  • #1

    (水曜日, 13 5月 2009 01:05)

    立派なホームページ開設おめでとうございます!
    クロノロジー、検索機能もついているので、
    大変便利ですね。
    研究者にはありがたい限りだと思います。